エデン

体の芯が熱い。
来年トライアスロン出場を密かにもくろむ慎太郎。
彼は時間があれば走った。
夜の川原、長い砂利道、濡れたアスファルト
汗は頬を伝い、地に落ちる。
Tシャツはすでに風に冷たくなびいている。
「気持ィィ」
彼が有一何も考えないでいられる時間、それがランニングをしているときだった。
彼はいつものように遠い景色を愛しみながら走った。
「ランランラン♪」
心の中で流れる軽快なリズムとメロディー。
風は柔らかく、彼の頬の汗も乾いてきたかと思ったその時。
「グルグルゥゥ〜」
彼は腹を見つめペースを落とした。
そう、ランニングにとって最悪の事態が彼の身に起こっていた。
「あ〜・・う●こしてぇ〜」
彼の足は蟻ほどの歩幅になり柔らかい風が途端に恐怖の向かい風に変わる。
両腕をわき腹に当ててもこの衝動は収まらなかった。
恐怖の大王が舞い降りてきてしまったのだ。
彼の頭にはトイレの三文字が縦横無尽に駆け巡り、足はそれに反比例するかのようにペースダウンしていった。
体の中の異物が「出たいよ〜出してよ〜」とダダをこね、デパートのおもちゃ売り場の子供のように泣き喚く。
彼がかいている汗は今やランニングによるものでなく、冷や汗そのものだった。
こんな時は不運が続くもので、丁度彼が走っていた場所は建物も何もない川原の土手。
「わっわっわっ」
まるで尻に火がついたかのようにピョコンピョコンと歩き、とっさの判断で誰もいない茂みへと駆け込んだ。
彼は捨てきれない羞恥心をズボンと一緒に下げ、茂みというエデンにしゃがみこんだ。
彼はこれで4度目だった。
始めは罪の意識にとらわれ、しゃがみこみながら自分を呪った。
2度目は近くにトイレがあったにもかかわらず、たどり着けない空しさで唇をかんだ。
3度目は溶けかかった残雪を固め尻を拭い、自分のひらめきに酔いしれた。
彼は4度目の罪を犯す。
空は曇り、川の流れがゆったりと時を運んだ。
彼はまた走り出す。
罪の意識はあの茂みに置いてきたのか、満面の笑みが彼の顔から溢れていた。
残されるものと去っていくもの。
別れはいつも冷酷で優しい。
茂みの中に取り残されたイヴ。
夢に向かって走り出すアダム。
彼らの距離は遠ざかり、今はもう「さよなら」さえもかなわない。
エデンのイヴは今ごろ散歩の犬にクンクンされ、飼い主に鼻をつままれているのだろう。
朝日はまた昇り沈んでゆく。
繰り返される毎日に同じことなどない。
彼の腹に残った痛みはそんなたわいもないリアルを突きつけて去っていくのであった。