鼻は命

僕にとって鼻は命だ。
昨日、とある用事で浅草の合羽橋商店街を夜歩いていた。
シャッターが下り、静まり返った商店街。
街灯の明かりだけが点々と灯る街並みを歩いていると、まるで僕だけが取り残されたような錯覚を覚えた。
春の夜のニオイ。
胸いっぱいに吸い込むと、心がキュッと小さくなるような切なさを感じる。
「春だな」
僕は昔から季節というものをニオイで感じてきた。
桜、ひまわり、枯葉や雪などで季節を感じるより「ニオイ」が季節を教えてくれる。
もし僕が盲目になり、時間の感覚を失ったとしても季節がわかるだろう。
好きな女の子が通り過ぎたときに漂う柔らかな香り、十代の僕はいつだって鼻で恋をしていた。
しかし、そんな鼻が何も感じられなくなった時があった。
タバコを吸っていた時期だ。
20歳から僕はタバコを吸い始め、昨年ようやく禁煙できた。
タバコは人の嗅覚を鈍くする。
よく禁煙すると食事が美味しくなるという話をきくが、僕の場合あまりそれは感じなかった。
しかし十代の頃のような切なさを感じる力が戻った。
大地を照らす太陽が昇り始め、夜明けがやってくる。
僕は生命のニオイを一つも逃さぬよう胸いっぱい深呼吸する。
桜の香り、芝生の香り、干した後の布団の香り・・。
ありふれた日々の香りが僕を抱きしめて離さない。
心が叫びだすような感動が全身を駆け抜ける。
すると僕の中の血という血が沸騰し「今日も生きてやる」と叫びだす。
僕は心は胸のあたりにあるのではなく、鼻のあたりにあるんじゃないかと思う。
だから僕にとって鼻は命なのだ。