お婆さんのトンカツ

彼は気分が沈んでいた。
「今日は店員さん二人とお客さん一人でしょ?なんかすげーレアなライブになりそうだな。」
リハーサルも終わり、ライブハウス近くのトンカツ屋でバンドのメンバーが冗談半分に言った。
友達には仕事や遠いという理由で断られ、今日のライブチケットの売れ行きがよくなかったのだ。
「俺ロースカツ定食ね」
「じゃあ俺は・・おろしカツ定食」
地味な女の子のアルバイトが注文を再度確認した後、彼はポケットからタバコをとりだし火をつけた。
窓の外は仕事帰りのサラリーマンや、着飾った女性たちが足早に通り過ぎてゆく。
連日降り続いていた雨も止み、すっかり秋の気配が街を包んでいた。
彼は深いため息を一つついた。
「こちらロースカツ定食になります」
皿の上には山盛りのキャベツと、なんの変哲もない一口サイズのカツが並んでいた。
あまりお腹はすいていなかったが割箸を手に取り、テーブルの端にあったソースに手を伸ばした。
その時、彼は隣のテーブルに座る一人のお婆さんが目に入った。
頭の毛は真っ白で動きも遅く、九十歳くらいだろうか、両手でおわんを包み込むようにして味噌汁を飲んでいた。
その時はただ外食好きの年寄りだと思い目をそらした。
が、もう一度彼女を見た。
彼女はとても美味しそうにトンカツを食べているのだ。
不器用そうに一つ一つトンカツを口に運ぶ、
ゆっくり噛み締めて目を細める、
のどの奥を通り過ぎるのを確認すると顔いっぱいしわくちゃにして満足そうに微笑む。
彼女は食べることを一生懸命楽しんでいた!
「ありがとうございました」
食事を終え、メンバーが冗談を言い合っている中、彼は先にレジで会計をすませ一人店の扉を開ける。
チラッと横目で見ると、お婆さんが座っていた席にはもう他の客が座って新聞を読んでいた。
外はすっかり暗くなっていた。
街の空気は冷たく澄んでいて、深呼吸をすると鼻の奥がツンとして胸が切なくなった。
「秋だなぁ」
彼はつぶやきタバコに火をつける。
「工藤って見かけによらずロマンチックだよなぁ」
いつの間にか後ろを歩いていたメンバーがみんな笑っていた。
「うるせぇ、見かけによらずってなんだよ」
彼は前を向き、もう一度大きな深呼吸をした。気分が良かった。
「やべぇライブ始まっちゃうよ!」
誰かが叫ぶと彼らはいっせいに走り出し大きな声で笑った。
声は横浜の街に小さく響き、秋の夜空に消えていった。